nao murakami blog

いまさら!と言われるでしょうが。

2015.09.05

naomurakami

世間では毎日のように「佐野研二郎 多摩美教授」の名前が目に入る
この頃。
佐野氏がどうだという話は、また別のお話として。
多摩美について思っている事を書かせて下さい。長いけど...。

2017年の春に廃部・廃科となる造形表現学部・映像演劇学科と、
入れ替わりに2014年度に新設された2つの学科(演劇舞踏
デザイン学科と、『佐野研二郎問題』炎上中の統合デザイン学科)に
ついて思うこと。

私は映像演劇学科の第三期卒業生で、卒業後にはムービーFILM撮影
(主にCM)の道に進みある程度のキャリアを重ねた後、撮影に関する
授業を担当する講師としてこの15年、自分なりに強い熱意を
持って、後輩でもある学生たちと関わってきました。

一介の非常勤講師が学校サイドに意見を言ったりする空気は、全く
ありませんが、学校・教務サイドに山ほど言いたいことがあります。
最も問いたいのは、運営側が心を砕いて向き合っていくべき対象は、
学生ではないのか?という単純なことです。
近年、どこの大学も企業化が著しいですが、それでも大学は決して
企業ではないのです。公共性・公益性を考慮されているため様々な
税的優遇措置を講じられています。しかし内実は、効率第一。
本来一番大切な、伸びていく学生をサポートする環境、時間、
機材は削られていきます。現に映像演劇学科が廃科というお達しが
来るだいぶ前から、フィルム機材は教室も機材もどんどん削られて
いきました。(今さらフィルム授業なんてアナログやっても
学生が呼べない・意味が無い、と上層部は硬く信じていたようです。
反対に、フィルムを学んだ学生・卒業生からは、ここ数年素晴らしい
映画監督が誕生し続けていますが。)

留年学生がいないこと・就職率が高いこと・有名企業に就職した
学生の数で「優秀さ」を評価するのではなく(その「評価」は
大学に対する文科省からの「評価」とイコールですが)、
学生一人一人が、在学中に安心して受け入れられる場を準備した
うえで、るつぼのような熱を孕みながら厳しく指導し、卒業して
社会人なった時に、流されないで踏ん張りながらモノを作る地力と
「間違ったこと」を見抜く力を、身につけられたかどうかこそ、
評価するべきです。
様々な事情で作品を作り続けられない状況になったとしても、
己を幸せにする感受性と心の腕力を学生時代に鍛えられたかどうか。
複雑な社会の中で、学生たちが追いつめられず、また誰かを
追いつめずに生き続けられるか。
ひりつくような傷みを抱えて創作へ没頭している教え子たちを
見ると、現代の美術大学が求められる教育の姿勢を、教員だけでなく
運営を牛耳る立場の大御所には本当によく考えてもらいたいと
思います。

少子化の流れで経営困難なのは分かります。しかし文科省に
助成金の額を上げてもらう為に、学生が表現の魔力にとりつかれた
ように制作に励んでいた場=映像演劇学科を潰し、代理店と
財界が牛耳る広告界の要求に沿うような学科を新設することは、
果たして教育機関として正しい態度なのでしょうか。

「組織の内側にいる教授は、組織の批判をする事は出来ない。
だから君のような『外郭団体』つまり非常勤の立場の人が、
言いたいとこを活発に内外に発言すべき」。講師になった時に、
ある教授が私に言った言葉です。なんだよ、内側の人こそ批判して
自浄しなきゃ組織は腐るじゃんかと思って腑に落ちませんでしたが、
その時の自分の反感は正しかったと、最近とみに思います。
結局、自分の「創作」、そして非常勤講師の私には知り得ない
「権威を含めたもろもろ」を守ることが大事な人たちが多い
ように思えます。勿論そうでない人もいらっしゃると思いますが。

私は今年度を持って、15年続けてきた多摩美講師の職を失職します。
この期におよんでは、発言に対する注意やプレッシャーを大学当局
から受けることもないでしょう。
だから、思っている事ははっきりと言ってしまおうと思っています。
もともと武蔵野美術大学で油画を志していた私は、「ファインアート
(油画、日本画、彫刻など)」と「デザイン」、それぞれ学ぶ人々の、
たたずまい、喋り方、仲間とのつるみ方が、どうしてこうも違うの
だろうと思っていました。多摩美に新設された「統合デザイン学科」
たるものの「教育理念」からは、私のような者には違和感しか感じ
られません。助成金の額を決める側の文科省の官僚にとっては
魅力的なのでしょうが。
広告業界におけるトレパクと、ものつくりおける複製についても、
いつか書いておこうと思っています。

グチ半分で書いちゃったので、画像は笑い眠り中の黒猫を...。

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